みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
昨日とその前日に、法隆寺の大修理に携わった「最後の宮大工」
西岡常一さんの記事を書きましたが、それにともなって、やはり
その飛鳥時代のことも合わせて書いた方が、よりわかりやすいとの
思いが湧いてきましたので、今回は聖徳太子についての記事を
書いてみます。
聖徳太子
しょうとくたいし
生没年 : 574~622
飛鳥時代の政治家、皇太子。用明天皇を父、欽明天皇の皇女穴穂部間人皇女を母とする。推古元(593)年、皇太子として叔母推古天皇の摂政となり、29年の間その地位を務めた。太子は摂政として天皇の政治を補佐し、蘇我氏と共同で政治・外交・文化等を行った。冠位十二階、憲法十七条の制定をし、官民の心得を示し、律令制の基礎固めを行った。遣隋使として小野妹子を派遣し、隋との国交を開き、大陸文化を採り入れ文化の向上に力を入れた。これが飛鳥文化と呼ばれている。また仏教の振興につとめ、四天王寺、法隆寺等を建立した。子には、山背大兄王をはじめとする八男六女がいる。大王を頂点とする集権国家体制の成立に力を入れたが、その政治思想は大化改新で実を結ぶことになる。死後、様々な伝説が生み出されている。 ○聖徳太子創建7か寺(法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・葛木寺) ○聖徳太子像を安置している寺(元興寺・橘寺・達磨寺・法隆寺 他)
聖徳太子については、いまさら説明の必要がないとは思いますが、今回は特に、
その当時のアジアの情勢も交えての記事を書いてみます。
なぜかというと、この当時から日本と中国の関係というのは、現在の日中関係
と共通するところがあると思うからです。
中国の日本に対しての見方というのは、日本の飛鳥時代から変わっていなくて、
日本の飛鳥時代のアジアでは、随(当時の中国)が最大の都市として栄えていました。
その周辺諸国は「冊封」といって、随に朝貢する(従う)ことで国家として認めてもらい、国の有事があれば随に守ってもらえるというように、国の安全を担保していた
のです。
そういった情勢だったにも関わらず、聖徳太子は隋に国書を書きました。
「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや・・・」
としたためました。
「天子」という言葉は、当時の中国「隋」の皇帝しか使っていません
でしたので、隋の皇帝はこの国書に激怒した、ということを皆さんも
学校で習ったと思います。
つまり「日本は中国の属国ではありませんよ。独立した国です」
と毅然として伝えたのでした。
しかし、そのことで何もかもが収まって、終わるはずがありません・・・
その意識は現在もずっと受け継がれていると思っています。
それでは、次回は聖徳太子が法隆寺に込めた願いと、その法隆寺を
建てた、飛鳥時代の宮大工達の思いはどうだったのか、ということ
について書いてみます。