みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
の第2回目です。
~前回の続き~(日本書紀より)
天照大神、手に宝鏡を持ちたまいて、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
に授け祝う(ほ)ぎて曰はく「吾が児、この宝鏡を視(み)まさんこと、
まさに吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同じくし殿
(でん)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」
これは同床共殿と言われています。
このように、天照大神が天孫に対し「宝鏡」をその御霊代(御神体)
として授け、宮殿の中に奉斎するように求めました。
(天照大神が稲を授けている絵 斎庭稲穂のご神勅)
さらには、天児屋命(あまのこやね)・太玉命(ふとたま)に勅す
らく「これ爾(いまし)二神、亦同(またとも)に内に待ひて、
善く防護を為せ」
さて、瓊瓊杵尊が天孫降臨をして、そのひ孫にあたる初代の神武天皇が
大和橿原宮(やまとかしわらのみや)において即位されると、「宝鏡」
を天照大神の御霊代として宮中の正殿に奉安されました。
時代は下って、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時代は、天照大神
の勢いを畏れて、八咫鏡を宮中の外に祀ることにしました。
崇神天皇6年、八咫鏡は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に
託され、笠縫村(かさぬいのむら)に祀られました(奈良県の大神神社
近くの檜原神社辺りの説あり)。
この時、新たに剣と鏡の形代(かたしろ・レプリカ、複製品)が作られ、
その形代が天皇の護身の御璽(ぎょじ)として宮中に祀られ、皇位の
印しとなりました。
つづく