みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
前回の続きになります。
さらにその後、新しい宮家から分立する宮家もあり、明治期に宮家の
数が増やされ、その後は増減を繰り返しながらも、終戦時には伏見宮
系統の11の宮家が存在していました。
その伏見宮は600年も昔に天皇家から分立した家ですから、天皇家
から相当の隔たりがあると思うかもしれません。しかし伏見宮と天皇家
は600年間、お互いに娘を嫁がせながら、常に近い関係を保ってきたの
です。
明治天皇の皇女のうち、成人した内親王4方は、いずれも邦家親王の孫と
結婚し、その内の3方は新しい宮家を創設しました。
それが
朝香宮(あさかのみや)
東久邇宮(ひがしくにのみや)
竹田宮(たけだのみや)
の3家です。
さて皇籍離脱した11宮家は51名は、それまで国から生活が保障されて
いたのですが、それがなくなったために、生活費は自ら稼ぎ出さなくては
いけなくなりました。
それまで与えられていた大きな邸宅も、間もなく90%の財産税が課税
されたことで、納税するために手放さなければなりませんでした。
11宮家の状況は各家ごとに異なりますが、皇籍離脱当時に子供だった
世代は、その後大学を卒業して就職する人が多くいましたが、当時の
当主は、昨日まで皇族だった人がどこかに就職するというのもなかなか
難しく、苦労が多かったようです。
また皇籍離脱時に高齢だった当主は、僅かに残った財産を切り売りしな
がら生活をしていました。
~⑥に続く~