みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
最後の宮大工と言われた「西岡常一」さんの9回目になります。
今回からは、御著書「木に学べ」から、素晴らしい名言をご紹介
いたします。
(出典:「木に学べ」)
(法隆寺)
西岡さん「ふつうの大工と宮大工どこが違ういわれましたらな、ふつうの
大工さんは坪なんぼで請け負うて、なんぼもうけてと考えるやろ。
わたしらは堂や塔を建てるのが仕事ですがな。仕事とは『仕える事』と
書くんですわな。塔を建てることに仕えたてまつるいうことです。
もうけとは違います。そんだけの違いです」
「そやから心に欲があってはならんのです。彫刻する人が仏さん彫るとき、
『千年もってくれ、千年もってくれ』と打つわけですな」
「無になって伽藍建てるわけですな。ですから、どんな有名なお寺見て
もらっても。棟梁の名前なんて書いてありませんでっしゃろ。自分が自慢
になるからせなんだんや。とにかく、自分で仏さんにならんと堂を作る
資格がない、神さんにならんとお宮さんやる資格ないといわれています」
〇ノ丞):まあ、この言葉にとやかく言う必要がないくらい、厳しくも
こんなに宮大工の神髄を語った言葉はないですね。
自分の心に欲を持っていたなら、宮大工を名乗る資格はない。
その欲をまずもって捨てて、神や仏と同じ心になってこそ、堂塔を建てる
ことが許される。
個人的にも私は仕事上、職人の部類に入りますので、その職人の気性という
ものには、経験上少しはわかるつもりです。
長年の蓄積により技術が向上するにつれ、良い面も出てくれば、その反面
色々な悪い面も出てきます。
良い面は、その技術でもって世の中のお役に立てる、とか給料が上がったり
とか。
悪い面とは、腕が上がると、どうしてもそれを誇ったり、ノボせたり、しまい
には天狗になったり・・・
技術職の人間にはよくありがちなケースではあるのですが、やはりそこに
大切な「心」がスッポリ抜けているのですよね。
まあ、そのことに気付かないまま終わってしまう人間もいて、いわゆる
「金儲け」に走ってしまうのが、現代の世の中では多いのかな・・・
最後の宮大工、西岡常一さんに学ぶことは多いですね。
~❿に続きます~
(西岡常一さん)