中今〇ノ丞の「まあるく生きる」

人生をどう生きたらいいのか、一緒に考えよう

ブッタ「感興のことば」から学ぶ ➑

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みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

前回の❼「バラモン」の続きです。

 

 

3「或る修行者・バラモンたちは、迷いの生存のうちに執着していて、

煩悩の汚れを滅ぼすに至らないうちに、途中で没落してしまう」

 

4「或る修行者・バラモンたちは、迷いの生存のうちに執着していて、

互いに異論をいだいて論争する。これらの人々は愚者であり、一方だけ

しか見ていないからである」

 

6「愚か者よ。螺髪を結んで何になるのだ。かもしかの皮をまとって

何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)をいだいて、外側だけを

飾っている」

 

8「螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモン

なのではない。生まれによってバラモンなのではない、と伝えられている。

大きかろうとも小さかろうとも悪をすべて除いた人は、諸の悪を除いたの

であるから、<バラモン>と呼ばれる」

 

 

〇ノ丞):二千五百年前のインドでは、カースト制度があって、その

一番上にバラモン階級という聖職者達の人達が存在しました。

それらの人達の、日頃の行いや見てくれを通して、ブッタは

 「外見ではない、その人たちの心の状態がどうなのか」

ということを問いかけておられるのでしょう。

 

 

さて、これらのやり取りを見て、フト思ったのが、二千年前にイエス・キリスト

イスラエルエルサレムにおいて、同じように当時のユダヤ教ファリサイ派

人々を見て語ったことと、よく似ているな、ということです。

 

 

生まれながらに特別な立場の環境に生まれてしまうと、人間というのはその地位

や名誉、外見に心を奪われていき、肝心の本人自身の日頃の行いや心の状態に

は注視しなくなるものなのでしょうか・・・

現在も・・・