中今〇ノ丞の「まあるく生きる」

人生をどう生きたらいいのか、一緒に考えよう

一番最初の天皇 神武天皇 ②

 

f:id:nakaimamarunosuke:20201108095732j:plain

 (出典:国史絵画)

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

神武天皇が故郷の日向を出発して、近畿地方の大和にて最初の天皇

として即位するまでの物語の2回目です。

 

 

 <前回の続きから>

こうして、お仕えする者達をひきつれてみやこ遷(うつ)しが始まりました。

 

目指す所は大和と決まりましたが、そこに行き着くまでは気も遠くなるほどの

難事業でありました。

 

これまで五瀬命(兄)、伊波礼比古命(神武天皇)がゆき届いて治められることを

よろこびしたっている人々が、われもわれもと申し出てお供に加わりました。

みなの食料、弓矢、野山でよるをあかす用意などで大変でした。

伊波礼比古命が三種の神器を奉じ、その皇子の多芸志美々命(たぎしみみのみこと)、

岐須美々命(きずみみのみこと)、五瀬命ははお供の人々をひきつれて、宮崎の

高千穂の宮をおたちになりました。

 

伊波礼比古命、御年45歳の冬(旧暦)10月5日のことでありました。

 

一行は海ぞいに北へすすみ佐土原(さどはら)、高鍋(たかなべ)と、北風が

枯草を吹き鳴らすなかを都農(つの)につきました。

 

五瀬命と相談された伊波礼比古命は都農村にお社(やしろ)を建て、天照大神

祀り東遷(とうせん)の成功を祈願されました。

 

今もこのお社は都農神社として宮崎県児湯郡都農町河北にあります。

 

おまつりを終えられた一行はまた北へすすみ、美々津(みみつ)につきました。

いよいよ美々津港から船団を仕立てての遠征です。

 

 

f:id:nakaimamarunosuke:20201108100057j:plain

(出典:「歴史人」より」

 

 

 

●文中に出てきました「都農神社」の詳細も載せておきます。(出典:九州の神社)

              ☟

 

 

宮崎県・都農神社(都農町)

御祭神

御祭神ごさいじん   大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと

由緒

都農神社つのじんじゃ創建そうけんは、神武天皇じんむてんのう大和やまとにて初代の天皇として御即位ごそくいされる6年前(前666)で、神武天皇じんむてんのう宮崎宮みやざきのみやを発し御東遷ごとうせんの折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久ぶうんちょうきゅう祈念きねん御祭神ごさいじん鎮祭ちんさいされた事と伝えられています。古来、日向国ひゅうがのくに一之宮いちのみやと称えられ、御祭神ごさいじんはご神徳の高い、大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)を奉斎ほうさいする古社こしゃです。

歴代皇室の尊崇そんすう篤く、「続日本後紀しょくにほんこうき」の承和じょうわ4年(837)8月1日くだりでは、「日向國ひむかのくに児湯郡こゆぐん 都濃神つののかみ都農神社つのじんじゃ)、妻神つまのかみ都萬神社つまじんじゃ)、宮埼郡みやざきぐんの江田神えたのかみ江田神社えたじんじゃ)、諸縣郡もろかたぐん霧嶋岑神きりしまみねのかみ霧島神社きりしまじんじゃ)、ならびて官社かんしゃあずかる」とあり、官社かんしゃれっしたことが記されています。同10年(843)には神階しんかい宣授せんじゅがあったと記されています。清和天皇せいわてんのう御代みよ(858-876)の「日本三代実録にほんさんだいじつろく」によると、天安2年(858)に従四位じゅしいじょうが授けられました。延長えんちょう5年(927)には「延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう」で日向国ひゅうがのくに児湯郡こゆぐん都農神社つのじんじゃせんせられ、日向国ひゅうがのくに式内四座しきないよんざのひとつとして日向国ひゅうがのくに一之宮いちのみや列格れっかくされました。

御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)は、多くのきさきめとり、そのきさき等との間に多くの御子みこをもうけ、そのいわれから縁結びの神とも子孫繁栄(子授け)の神とも云われる様になりました。また医療の法を定め多くの人々を助けた事により、医療(病気平癒)の神ともされます。また、少彦名命すくなひこなのみことと共に力を合わせて多くの人々と交わり、次々と国造りをされた事により、事業開拓(商売繁盛)の神としての御神徳ごしんとくがあるとされています。

旧記きゅうきでは、往古は日向国ひゅうがのくに第一の大社たいしゃとして境内けいだい広濶こうかつ社殿しゃでん壮大であったと伝えられ、第三鳥居からは15~16町(約1.7km)、第二鳥居からは6~7町(700m)の間にわたって建立こんりゅうせられた古跡ふるあとが今なお認められています。天文てんもん18年(1549)に都於郡とのこおりじょう城主じょうしゅ伊東義祐いとうよしすけ社殿しゃでん造営ぞうえい天正てんしょう6年(1578)島津しまづ大友おおとも両軍の騒乱により、社殿しゃでん兵火へいかかかり、累世るいせい秘蔵ひぞう宝物ほうもつ古文書こもんじょ烏有うゆうに帰しましたが、御神体ごしんたい尾鈴山おすずやまふもとの神社に避難され難を逃れました。争乱後は長年社殿しゃでん再興さいこうも無く小さなほこらがあるのみで、元和げんわ元年(1615)には、昔のおもかげなしという見聞者けんぶんしゃの記録が残されています。元和げんわ3年(1617)高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月種春あきづきたねはる再興さいこうし、同14年(1628)には知行ちぎょう20こく寄進きしんされました。元禄げんろく5年(1692)の高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月種政あきづきたねまさによる社殿しゃでん再興さいこう安政あんせい6年(1859)の篤志とくしか社殿しゃでん寄進きしんによる改築かいちくがなされましたが、社殿しゃでん神域しんいきとも縮少の傾向にあったとされています。

明治4年(1871)5月15日には県内の他社に先んじて国幣社こくへいしゃ列格れっかく昭和9年(1934)には神武天皇じんむてんのう御東遷ごとうせん2600記念式典に当たり、記念事業として奉賛会ほうさんかいを組織して神門しんもん境内けいだいの拡張整備がなされました。社殿しゃでんの老朽化に伴い平成14年(2003)に「平成の大造営ぞうえい」と銘打って御造営ぞうえい奉賛会ほうさんかいが設立され、平成19年(2007)7月7日に現在の社殿しゃでん竣成しゅんせいされました。流造ながれづくり本殿ほんでんは総ケヤキ造りで、入母屋造いりもやづくり拝殿はいでんは総ヒノキ造です。旧拝殿はいでんは、現在は楽殿かぐらでん神輿殿みこしでんとなっています。

神幸祭ごしんこうさいで知られる夏祭は、8月1日、2日に斎行さいこうされています。都農神社つのじんじゃの夏祭の起源は神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの折、御船みふね大三輪おおみわの神(大国主命おおくにぬしのみこと大己貴命おおなむちのみこと)をまつり、太刀たちほこたてまつって武運長久ぶうんちょうきゅう祈念きねんした故事こじに由来しています。大三輪おおみわの神は皇后こうごうに「和魂にきみたま皇后こうごう御命おんいのち皇后こうごうの船を守り、荒魂あらみたまは船の先鋒せんぽうとなりて軍船を導こう」と教えを示し、神功皇后じんぐうこうごうつつしんで拝受はいじゅします。この時、臨月を迎えていた神功皇后じんぐうこうごうは石を腰に挟み「三韓征伐さんかんせいばつが無事に済み、また日本に帰ってきた時に出産出来ます様に」と祈り、無事の帰還して応神天皇おうじんてんのうを御出産されました。神幸祭ごしんこうさい浜下はまくだ神事しんじ)は、勇壮で盛大なお祭りとして名高く、中でも2日のお宮参りは特に圧巻です。その宮入りに際し奉納ほうのうする「浜下はまくだり石」は、その神功皇后じんぐうこうごうが腰に挟んだ石が元となっており、神功皇后じんぐうこうごうの無事の御帰りを祝し、宮司ぐうじが浜で集めた石を、平和を願い奉納ほうのうした事が始まりと伝えられています。また、本殿ほんでんの裏には、「石持いしも神事しんじ」の石納所いしのうしょがあります。年末年始以外、神門しんもん前で「神の石」を受け取り、参拝後に納めることができます。

境内けいだい社としては、本殿ほんでん向かって左手に素盞鳴命すさのおのみことまつ素盞鳴神社すさのおじんじゃ。右手には素盞鳴命すさのおのみこと后神きさきがみ櫛稲田姫命くしいなだひめのみこと父母神ふぼがみである足摩乳命あしなづちのみこと手摩乳命てなづちのみことまつ足摩乳あしなづち手摩乳神社てなづちじんじゃ鎮座ちんざしています。共に、安政あんせい6年(1859)10月に高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月種殷あきづきたねとみにより改築かいちく明治10年(1877)12月3日に摂社せっしゃ指定を受け、明治18年(1885)に官費かんぴにて改築かいちくされました。

足摩乳あしなづち手摩乳神社てなづちじんじゃの手前の熊野神社くまのじんじゃは、早玉男命はやたまのをのみこと事解男命ことさかのおのみこと菊理比売命きくりひめのみことまつっています。都農神社つのじんじゃの平成19年(2007)までの旧本殿ほんでんをお宮としています。

境内けいだいの東側には、五穀豊穣・商売繁盛・殖産振興などの御神徳ごしんとくのある宇加之御魂命うかのみたまのみことまつ稲荷神社いなりじんじゃ。防火(火伏せ)・防災などの御神徳ごしんとくのある火産霊命ほむすびのみことまつ愛宕神社あたごじんじゃ鎮座ちんざしています。

境外けいがい末社まっしゃとして、北北西1.2kmほどに元宮もとみやとされている瀧神社たきじんじゃ鎮座ちんざしています。

また、境内けいだいには御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)にまつわる彫刻などがまつられています。

御神象ごしんぞう」は、都農神社つのじんじゃ御神木ごしんぼくである夫婦楠めおとくすの木のまたから生れ出でた神象しんぞうです。日本書紀にほんしょきによると、大己貴命おおなむちのみことは兄の八十神やそがみ等に攻めやられ、危うく命を落としそうになったとき、母神である櫛名田比売くしなだひめのみこと大己貴命おおなむちのみことの事を案じて「木のまた」から逃がしたと記されています。この事から、この神象しんぞうは「大己貴命おおなむちのみこと化身けしんである」として広く信仰を集めています。不思議な事に神象しんぞうの体にはハートマークが浮出ており、この神象しんぞうでる事で恋愛成就や夫婦円満除災招福じょさいしょうふくの御利益があると言われています。

神門しんもんには「大国だいこく」と「でウサギ」がまつられています。

御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)は、大袋おおふくろ小槌こづちの「大国だいこくさま」としても知られ、その御姿に誰もが心を和ませます。国土の開拓やあらゆる病気の平癒を行い、また恋多き神様としても有名であることから病気平癒をはじめ、子授けや商売繁盛の御利益があるとされており、「大国だいこく」に願いを込めてでる事で願い事がかなうとされています。

大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)にまつわる話で広く知られるのが「因幡いなば素兎しろうさぎ」です。兄の八十神やそがみ等と共に因幡いなばの国を訪れた大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)は、サメに皮を剥がれて泣き叫ぶウサギが居た。大己貴命おおなむちのみことがそのウサギに「真水を浴びがまの穂の上に寝転ぶと良い」と言われたので、ウサギは教えの通り行うと、みるみる元気になりました。この事からウサギは病気平癒の御利益や、その行いから素直な心を表す象徴とされています。

また、参道さんどう手水舎てみずしゃ近を流れる小川にかかる橋に「あぶら石」が置かれています。古くは都農川つのがわが増水した際、都農川つのがわの対岸に設置してあった「あぶら石」に油を注ぎ火を灯して都農神社つのじんじゃ遥拝所ようはいじょとしていました。現在は、橋が渡された事により「あぶら石」は奉納ほうのうされ、現在に至っています。長年、人々を導き目標とされてきた事により、目標達成や心願成就しんがんじょうじゅ霊石れいせきとして信仰されるようになり、この岩に願いを込めて触れる事で願い事をかなえてくれるとされています。

Photo・写真

鳥居 参道 宮橋から神門 宮橋前の「あぶら石」 手水舎 神門 境内 社殿 社殿 社殿 社殿 拝殿 本殿 本殿 熊野神社 素盞鳴神社 「石持ち神事」の石納所 足摩乳・手摩乳神社 神楽殿・神輿殿 御神象 撫で大国 撫でウサギ 稲荷神社 愛宕神社

 

情報

住所   〒889-1201
宮崎県児湯郡こゆぐん都農町つのちょう川北かわきた13294
創始そうし   神武天皇じんむてんのう御即位ごそくいの6年前(前666)
社格しゃかく   国幣小社こくへいしょうしゃ [旧社格]
例祭   12月5日
神事しんじ   夏祭神幸祭ごしんこうさい(8月1日、2日)
関連   瀧神社 [都農神社・奥宮]
狭野神社(高原町)
皇子原神社(高原町)
皇宮神社(宮崎市)
宮崎神宮(宮崎市)
立磐神社(日向市)
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ

 

www.nakaimamarunosuke.com

 

 

www.nakaimamarunosuke.com