みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
今回は「後奈良天皇」についての記事を書きます。
(一年前の記事をリライトしました)
(註:この絵画の後奈良天皇はマスクのようなものをしていますね。般若心経を
清書されているので、このようにされていると思われます。神職さんでも、
神様の御本殿前にてお供えものをする時などに、神聖な神様に息がかからない
よう、このようにマスクのような紙のものをして行事作法をされます)
後奈良天皇とは
[生]明応5(1496).12.23. 京都
[没]弘治3(1557).9.5. 京都
第 105代の天皇 (在位 1526~57) 。名は知仁。後柏原天皇の第2皇子。母は豊楽門院藤原藤子 (勧修寺教秀の娘) 。皇室の最も式微した時期で,室町幕府の献金で践祚し,それから 10年後の天文5 (36) 年,北条,今川,朝倉,大内氏らの献金によって即位式が行えたほどであった。全国的な争乱に加えて,同9年の飢饉と疫病に苦しむ庶民を見て,宸筆の『般若心経』を諸国一宮に奉納し災厄を祈禳したことは有名である。学を好み,三条西実隆らに和漢の書の講義を聞き,古典の書写,保存に努めた。『天聴集』が現存している。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
令和になって、現在の天皇が即位式と大嘗祭を行われたことは記憶に
新しいですよね。
現在、武漢発「新型コロナウィルス」により、国も国民も色々な困難に直面
させられています。
歴代の天皇陛下は、疫病や飢饉などの国難が起こると、賢所(かしこどころ:
天照大御神が祀られている場所)で祈願をされたりしますが、後奈良天皇は
在位期間にも、上記の疫病が大流行しました。
この国難のときに後奈良天皇は「般若心経」を金文字で書かれて、全国の
一宮の神社に奉納し、この疫病をなくすように神に祈願されました。
それも、誰に知られることもなく、密かに勅使を全国に派遣されたとか。
当時は室町幕府の力も衰え、国内の経済も苦しく、当然皇室の経済状態も
乏しいのにも関わらず、です。
何故か?それは「天災や飢饉、疫病が起こるのは、自分にその徳が足りない
からだ」とご自身を咎められるからです。
決して人のせいにはしません。
その時の般若心経が、愛知県の三河、西尾氏亀沢町に現存しております。
(文化財愛知ナビより抜粋)
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天文8年(1539)、気候不順で8月に洪水、さらに蝗害も加わり諸国は凶作となり、
翌9年の春には諸国飢饉の上、悪疫も流行し天下惨状を極めた。天皇は痛嘆し
嵯峨天皇以来の慣例に従い般若心経を書写し、山城国醍醐寺三宝院の義尭僧正を
禁中に召して、5日問にわたり不動法を行って供養させた。さらに天皇は宸翰の
心経を諸国一宮に奉納した。現存しているのは、この1本をはじめ、肥後・
周防・甲斐・伊豆等、数本にすぎない。
(全国の一宮に奉納されていたという事も、発見されたから分かった)