中今〇ノ丞の「まあるく生きる」

人生をどう生きたらいいのか、一緒に考えよう

三種の神器 八咫鏡(やたのかがみ) ❷ 大和橿原宮から笠縫村へ

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

今回も、三種の神器の一つ「八咫鏡」(やたのかがみ)について

の第2回目です。

 

 

八咫鏡は、皇位の印である三種の神器のひとつです。

   

~前回の続き~(日本書紀より)

天照大神、手に宝鏡を持ちたまいて、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)

に授け祝う(ほ)ぎて曰はく「吾が児、この宝鏡を視(み)まさんこと、

まさに吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同じくし殿

(でん)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」

 

これは同床共殿と言われています。

このように、天照大神天孫に対し「宝鏡」をその御霊代(御神体

として授け、宮殿の中に奉斎するように求めました。

天照大神が稲を授けている絵 斎庭稲穂のご神勅)  

 

さらには、天児屋命(あまのこやね)・太玉命(ふとたま)に勅す

らく「これ爾(いまし)二神、亦同(またとも)に内に待ひて、

善く防護を為せ」

 

 

さて、瓊瓊杵尊天孫降臨をして、そのひ孫にあたる初代の神武天皇

大和橿原宮(やまとかしわらのみや)において即位されると、「宝鏡」

天照大神の御霊代として宮中の正殿に奉安されました。

 

時代は下って、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の時代は、天照大神

の勢いを畏れて、八咫鏡を宮中の外に祀ることにしました。

崇神天皇6年、八咫鏡は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に

託され、笠縫村(かさぬいのむら)に祀られました(奈良県大神神社

近くの檜原神社辺りの説あり)。

 

この時、新たに剣と鏡の形代(かたしろ・レプリカ、複製品)が作られ、

その形代が天皇の護身の御璽(ぎょじ)として宮中に祀られ、皇位

印しとなりました。

 

つづく

 

 

 

三種の神器 八咫鏡(やたのかがみ) ❶

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

今回は、三種の神器の一つ「八咫鏡」(やたのかがみ)について

学んでみたいと思います。

 

 

八咫鏡は、皇位の印である三種の神器のひとつです。

古事記日本書紀によりますと、高天原(たかまがはら)で天照大神

天岩屋(あまのいわや)にこもってしまったときに作られました。

 

f:id:nakaimamarunosuke:20200514192442j:plain

(天の岩戸開き)

 

この八咫鏡天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ=草薙剣)、八尺瓊勾玉

(やさかにのまがたま)を三種の神器といいますが、天照大神は、孫に

あたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、この三種の神器を渡して

「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほ)の瑞穂の国は、これ吾が

子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫、

就(ゆ)きて治(し)らせ。行く(さき)くませ。宝祚(あまつひつぎ)の

隆(さか)えまさんこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)り無か

るべし」(←少々読みづらいですが原文のママ載せます)

 

上記の文は「天壌無窮の神勅」と言われています。

天地が永久に続くよう宝祚(皇位)も悠久に続くことを言われて

います。

 

続いて

 

天照大神、手に宝鏡を持ちたまいて、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)

に授け祝う(ほ)ぎて曰はく「吾が児、この宝鏡を視(み)まさんこと、

まさに吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同じくし殿

(でん)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」

 

 皇居の賢所と、伊勢の神宮の内宮に鏡が祀られているのは、上記の

ように「鏡を吾(すなわち天照大神を)視るがごとし」ということで

祀られているわけです。

 

またその後の文章「与(とも)に床(ゆか)を同じくし~」は

同床共殿と言われています。

 

 

後にこの三種の神器を携えて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の一団は

地上に天孫降臨します。

f:id:nakaimamarunosuke:20200514212434j:plain

 

つづく

 

 

尾張式内社を訪ねて 53 成海神社(なるみじんじゃ)

f:id:nakaimamarunosuke:20200411214134j:plain

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

今回ご紹介する神社は「成海神社」(なるみじんじゃ)です。

 

愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85

 

御祭神

日本武尊(やまとたけるのみこと) 

宮簀媛命(みやずひめのみこと)

建稻種命(たけいなだのみこと)

 

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203413j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203445j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203519j:plain

さざれ石です

f:id:nakaimamarunosuke:20200513210033j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203552j:plain

手水舎

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203618j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203650j:plain

桜が満開の時期に参拝していました

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203721j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203805j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203847j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203921j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513203947j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513204021j:plainf:id:nakaimamarunosuke:20200513204103j:plain

境内社

f:id:nakaimamarunosuke:20200513205221j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513205411j:plain

屋根の上 気になったのでパチリ

f:id:nakaimamarunosuke:20200513205444j:plain

鮮やかな朱色です

f:id:nakaimamarunosuke:20200513205521j:plain

稲荷神社

f:id:nakaimamarunosuke:20200513205616j:plain

だるま塚

f:id:nakaimamarunosuke:20200513210241j:plain

f:id:nakaimamarunosuke:20200513210331j:plain

 

日本武尊が東征を終えて、信濃から尾張国に入られ、内津峠を越えて

この地から宮簀媛命の待つ火上の邑へ船出されたという伝承の地です。

この坂から南を見渡すと、斎山・火上山がはっきりと見えます。

 

往古はこの辺り(天神山の麓)まで伊勢湾の海辺で、鳴海潟と

呼ばれていました。

 

成海神社は朱雀元年(686年)、日本武尊と東征を援助した

尾張始祖とを併せ祀って、この地に創建されました。

 

こちら成海神社には、広大な無料駐車場が完備されています。(200台は

止めれそう・・・)

 

f:id:nakaimamarunosuke:20200513211523j:plain

 

政府・内閣に指導力がない?

f:id:nakaimamarunosuke:20200512215843j:plain

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

今回は政治のことについて語ってみようと思います。

 

~「内閣に指導力がない」が急増~

 

て、ニュースでやってた。

 

そもそも、日本は民主主義の国で、国会でもそれぞれの国会議員がその地元の

意見・異見、また様々な業界団体の意見を吸い上げて、それを背負って議論する

わけですからそりゃ時間がかかると思う。

 

自民党内でも民主主義にのっとって、例えば「経済成長戦略本部・新型コロナ

ウィルス関連肺炎対策本部合同会議」(超長い・・・)とか様々な部会、会議、

委員会などの議論を通して国会にて法案を通していくわけですから。

それらの会議でも、それぞれの言い分があって、どれか一つの意見だけを優先して、

他の意見は無視していい、ってなわけにはいかないのだし。

 

ただ反面、今回の新型コロナウィルスに関して、「独裁国家の方が鎮静化

に関しては早かった」というコメンテーターもいらっしゃる。

 

では独裁国家の指導者の方が指導力があるのかな?

 

独裁国家では自由も、人権もない。反体制の意見を言おうものなら、

即刻逮捕されてしまう。

 

半面、時間はかかるが国民が主人公である日本は独裁国家よりは

公平性があるのでは。

 

指導力がある国ってどこ?

最後の宮大工 西岡常一 ❸

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

最後の宮大工と言われた「西岡常一」さんの著書

「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」

の3回目です。

 

法隆寺

 

 祖父から大工修行のいろはを叩き 込まれる、まだ若き西岡さん。

その全ては一人前の棟梁にするため。

大事なことは祖父から口伝にて伝えられ、聞き覚えでした。

 

そのやり方は

ー手取り足取りの指導などしないー

ー体で覚える。 優れた仕事を見て、それを盗むー

ー口より先に手ー

 

ー自分で体にしみこませるー

先祖から受け継いできた口伝を、西岡さんは実践していきます。

 

 

さて世間ではなぜわかりやすく教えないのか?その方が効率的ではないか?

と疑問を持つ方もおられるでしょう。

 

なぜ教えないのか?

その理由も西岡さんは語っておられます。

 

「教えたことは忘れる」から。

一見、教えるというと親切だと思うかもしれんが、結局教えられた

ことは身にならない。自分で考えて、苦労して身につけたことは

一生忘れない、と言っておられます。

 

なので、後に西岡棟梁の最後の内弟子となられた小川三夫さん

なんかは、西岡棟梁からカンナで削った薄い切り屑を一枚渡されて、

『「これと同じように削るんや」と言われただけで、後にも先にも

何にも教えてもらったことがない』と言い切っておられます。

 

ー教える方も必死、教わる方も必死ー

 

 

〇ノ丞):私の個人的な考えとしては、やる気があれば、どんな境遇や

環境にあっても、自分で勉強して道を切り開いていくでしょうし、例え

教えてもらえないとしても、なんとしてでも技術を会得しようと

頑張るでしょう。その表れが「見て盗む」になるのではないかなと

思っています。

 

※ただし、晩年の西岡棟梁は「やっぱり自分の技術を後世に残さんと

あかん」ということで、積極的に若い職人たちに教えていたとか・・・

 

 

今回はここまでです。

次回は、いよいよ核心となる棟梁になるための心がまえについて

書いていきます。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 (西岡常一さん)

 

 

 

 

 

聖徳太子 「日出る処の天子」 前編

 

 みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

昨日とその前日に、法隆寺の大修理に携わった「最後の宮大工」

西岡常一さんの記事を書きましたが、それにともなって、やはり

その飛鳥時代のことも合わせて書いた方が、よりわかりやすいとの

思いが湧いてきましたので、今回は聖徳太子についての記事を

書いてみます。

 

 

聖徳太子

しょうとくたいし

生没年 : 574~622

飛鳥時代の政治家、皇太子。用明天皇を父、欽明天皇の皇女穴穂部間人皇女を母とする。推古元(593)年、皇太子として叔母推古天皇の摂政となり、29年の間その地位を務めた。太子は摂政として天皇の政治を補佐し、蘇我氏と共同で政治・外交・文化等を行った。冠位十二階、憲法十七条の制定をし、官民の心得を示し、律令制の基礎固めを行った。遣隋使として小野妹子を派遣し、隋との国交を開き、大陸文化を採り入れ文化の向上に力を入れた。これが飛鳥文化と呼ばれている。また仏教の振興につとめ、四天王寺法隆寺等を建立した。子には、山背大兄王をはじめとする八男六女がいる。大王を頂点とする集権国家体制の成立に力を入れたが、その政治思想は大化改新で実を結ぶことになる。死後、様々な伝説が生み出されている。 ○聖徳太子創建7か寺(法隆寺四天王寺中宮寺橘寺広隆寺法起寺葛木寺) ○聖徳太子像を安置している寺(元興寺橘寺達磨寺法隆寺 他)

 

聖徳太子については、いまさら説明の必要がないとは思いますが、今回は特に、

その当時のアジアの情勢も交えての記事を書いてみます。

 

なぜかというと、この当時から日本と中国の関係というのは、現在の日中関係

と共通するところがあると思うからです。

 

 

中国の日本に対しての見方というのは、日本の飛鳥時代から変わっていなくて、

日本の飛鳥時代のアジアでは、随(当時の中国)が最大の都市として栄えていました。
その周辺諸国は「冊封」といって、随に朝貢する(従う)ことで国家として認めてもらい、国の有事があれば随に守ってもらえるというように、国の安全を担保していた

のです。 

 

そういった情勢だったにも関わらず、聖徳太子は隋に国書を書きました。

「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや・・・」

としたためました。

 

「天子」という言葉は、当時の中国「隋」の皇帝しか使っていません

でしたので、隋の皇帝はこの国書に激怒した、ということを皆さんも

学校で習ったと思います。

 

つまり「日本は中国の属国ではありませんよ。独立した国です」

と毅然として伝えたのでした。

 

しかし、そのことで何もかもが収まって、終わるはずがありません・・・

その意識は現在もずっと受け継がれていると思っています。

 

 

それでは、次回は聖徳太子法隆寺に込めた願いと、その法隆寺

建てた、飛鳥時代の宮大工達の思いはどうだったのか、ということ

について書いてみます。