中今〇ノ丞の「まあるく生きる」

人生をどう生きたらいいのか、一緒に考えよう

一番最初の天皇 神武天皇 ②

 

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 (出典:国史絵画)

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

神武天皇が故郷の日向を出発して、近畿地方の大和にて最初の天皇

として即位するまでの物語の2回目です。

 

 

 <前回の続きから>

こうして、お仕えする者達をひきつれてみやこ遷(うつ)しが始まりました。

 

目指す所は大和と決まりましたが、そこに行き着くまでは気も遠くなるほどの

難事業でありました。

 

これまで五瀬命(兄)、伊波礼比古命(神武天皇)がゆき届いて治められることを

よろこびしたっている人々が、われもわれもと申し出てお供に加わりました。

みなの食料、弓矢、野山でよるをあかす用意などで大変でした。

伊波礼比古命が三種の神器を奉じ、その皇子の多芸志美々命(たぎしみみのみこと)、

岐須美々命(きずみみのみこと)、五瀬命ははお供の人々をひきつれて、宮崎の

高千穂の宮をおたちになりました。

 

伊波礼比古命、御年45歳の冬(旧暦)10月5日のことでありました。

 

一行は海ぞいに北へすすみ佐土原(さどはら)、高鍋(たかなべ)と、北風が

枯草を吹き鳴らすなかを都農(つの)につきました。

 

五瀬命と相談された伊波礼比古命は都農村にお社(やしろ)を建て、天照大神

祀り東遷(とうせん)の成功を祈願されました。

 

今もこのお社は都農神社として宮崎県児湯郡都農町河北にあります。

 

おまつりを終えられた一行はまた北へすすみ、美々津(みみつ)につきました。

いよいよ美々津港から船団を仕立てての遠征です。

 

 

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(出典:「歴史人」より」

 

 

 

●文中に出てきました「都農神社」の詳細も載せておきます。(出典:九州の神社)

              ☟

 

 

宮崎県・都農神社(都農町)

御祭神

御祭神ごさいじん   大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと

由緒

都農神社つのじんじゃ創建そうけんは、神武天皇じんむてんのう大和やまとにて初代の天皇として御即位ごそくいされる6年前(前666)で、神武天皇じんむてんのう宮崎宮みやざきのみやを発し御東遷ごとうせんの折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久ぶうんちょうきゅう祈念きねん御祭神ごさいじん鎮祭ちんさいされた事と伝えられています。古来、日向国ひゅうがのくに一之宮いちのみやと称えられ、御祭神ごさいじんはご神徳の高い、大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)を奉斎ほうさいする古社こしゃです。

歴代皇室の尊崇そんすう篤く、「続日本後紀しょくにほんこうき」の承和じょうわ4年(837)8月1日くだりでは、「日向國ひむかのくに児湯郡こゆぐん 都濃神つののかみ都農神社つのじんじゃ)、妻神つまのかみ都萬神社つまじんじゃ)、宮埼郡みやざきぐんの江田神えたのかみ江田神社えたじんじゃ)、諸縣郡もろかたぐん霧嶋岑神きりしまみねのかみ霧島神社きりしまじんじゃ)、ならびて官社かんしゃあずかる」とあり、官社かんしゃれっしたことが記されています。同10年(843)には神階しんかい宣授せんじゅがあったと記されています。清和天皇せいわてんのう御代みよ(858-876)の「日本三代実録にほんさんだいじつろく」によると、天安2年(858)に従四位じゅしいじょうが授けられました。延長えんちょう5年(927)には「延喜式えんぎしき神名帳じんみょうちょう」で日向国ひゅうがのくに児湯郡こゆぐん都農神社つのじんじゃせんせられ、日向国ひゅうがのくに式内四座しきないよんざのひとつとして日向国ひゅうがのくに一之宮いちのみや列格れっかくされました。

御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)は、多くのきさきめとり、そのきさき等との間に多くの御子みこをもうけ、そのいわれから縁結びの神とも子孫繁栄(子授け)の神とも云われる様になりました。また医療の法を定め多くの人々を助けた事により、医療(病気平癒)の神ともされます。また、少彦名命すくなひこなのみことと共に力を合わせて多くの人々と交わり、次々と国造りをされた事により、事業開拓(商売繁盛)の神としての御神徳ごしんとくがあるとされています。

旧記きゅうきでは、往古は日向国ひゅうがのくに第一の大社たいしゃとして境内けいだい広濶こうかつ社殿しゃでん壮大であったと伝えられ、第三鳥居からは15~16町(約1.7km)、第二鳥居からは6~7町(700m)の間にわたって建立こんりゅうせられた古跡ふるあとが今なお認められています。天文てんもん18年(1549)に都於郡とのこおりじょう城主じょうしゅ伊東義祐いとうよしすけ社殿しゃでん造営ぞうえい天正てんしょう6年(1578)島津しまづ大友おおとも両軍の騒乱により、社殿しゃでん兵火へいかかかり、累世るいせい秘蔵ひぞう宝物ほうもつ古文書こもんじょ烏有うゆうに帰しましたが、御神体ごしんたい尾鈴山おすずやまふもとの神社に避難され難を逃れました。争乱後は長年社殿しゃでん再興さいこうも無く小さなほこらがあるのみで、元和げんわ元年(1615)には、昔のおもかげなしという見聞者けんぶんしゃの記録が残されています。元和げんわ3年(1617)高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月種春あきづきたねはる再興さいこうし、同14年(1628)には知行ちぎょう20こく寄進きしんされました。元禄げんろく5年(1692)の高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月種政あきづきたねまさによる社殿しゃでん再興さいこう安政あんせい6年(1859)の篤志とくしか社殿しゃでん寄進きしんによる改築かいちくがなされましたが、社殿しゃでん神域しんいきとも縮少の傾向にあったとされています。

明治4年(1871)5月15日には県内の他社に先んじて国幣社こくへいしゃ列格れっかく昭和9年(1934)には神武天皇じんむてんのう御東遷ごとうせん2600記念式典に当たり、記念事業として奉賛会ほうさんかいを組織して神門しんもん境内けいだいの拡張整備がなされました。社殿しゃでんの老朽化に伴い平成14年(2003)に「平成の大造営ぞうえい」と銘打って御造営ぞうえい奉賛会ほうさんかいが設立され、平成19年(2007)7月7日に現在の社殿しゃでん竣成しゅんせいされました。流造ながれづくり本殿ほんでんは総ケヤキ造りで、入母屋造いりもやづくり拝殿はいでんは総ヒノキ造です。旧拝殿はいでんは、現在は楽殿かぐらでん神輿殿みこしでんとなっています。

神幸祭ごしんこうさいで知られる夏祭は、8月1日、2日に斎行さいこうされています。都農神社つのじんじゃの夏祭の起源は神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの折、御船みふね大三輪おおみわの神(大国主命おおくにぬしのみこと大己貴命おおなむちのみこと)をまつり、太刀たちほこたてまつって武運長久ぶうんちょうきゅう祈念きねんした故事こじに由来しています。大三輪おおみわの神は皇后こうごうに「和魂にきみたま皇后こうごう御命おんいのち皇后こうごうの船を守り、荒魂あらみたまは船の先鋒せんぽうとなりて軍船を導こう」と教えを示し、神功皇后じんぐうこうごうつつしんで拝受はいじゅします。この時、臨月を迎えていた神功皇后じんぐうこうごうは石を腰に挟み「三韓征伐さんかんせいばつが無事に済み、また日本に帰ってきた時に出産出来ます様に」と祈り、無事の帰還して応神天皇おうじんてんのうを御出産されました。神幸祭ごしんこうさい浜下はまくだ神事しんじ)は、勇壮で盛大なお祭りとして名高く、中でも2日のお宮参りは特に圧巻です。その宮入りに際し奉納ほうのうする「浜下はまくだり石」は、その神功皇后じんぐうこうごうが腰に挟んだ石が元となっており、神功皇后じんぐうこうごうの無事の御帰りを祝し、宮司ぐうじが浜で集めた石を、平和を願い奉納ほうのうした事が始まりと伝えられています。また、本殿ほんでんの裏には、「石持いしも神事しんじ」の石納所いしのうしょがあります。年末年始以外、神門しんもん前で「神の石」を受け取り、参拝後に納めることができます。

境内けいだい社としては、本殿ほんでん向かって左手に素盞鳴命すさのおのみことまつ素盞鳴神社すさのおじんじゃ。右手には素盞鳴命すさのおのみこと后神きさきがみ櫛稲田姫命くしいなだひめのみこと父母神ふぼがみである足摩乳命あしなづちのみこと手摩乳命てなづちのみことまつ足摩乳あしなづち手摩乳神社てなづちじんじゃ鎮座ちんざしています。共に、安政あんせい6年(1859)10月に高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月種殷あきづきたねとみにより改築かいちく明治10年(1877)12月3日に摂社せっしゃ指定を受け、明治18年(1885)に官費かんぴにて改築かいちくされました。

足摩乳あしなづち手摩乳神社てなづちじんじゃの手前の熊野神社くまのじんじゃは、早玉男命はやたまのをのみこと事解男命ことさかのおのみこと菊理比売命きくりひめのみことまつっています。都農神社つのじんじゃの平成19年(2007)までの旧本殿ほんでんをお宮としています。

境内けいだいの東側には、五穀豊穣・商売繁盛・殖産振興などの御神徳ごしんとくのある宇加之御魂命うかのみたまのみことまつ稲荷神社いなりじんじゃ。防火(火伏せ)・防災などの御神徳ごしんとくのある火産霊命ほむすびのみことまつ愛宕神社あたごじんじゃ鎮座ちんざしています。

境外けいがい末社まっしゃとして、北北西1.2kmほどに元宮もとみやとされている瀧神社たきじんじゃ鎮座ちんざしています。

また、境内けいだいには御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)にまつわる彫刻などがまつられています。

御神象ごしんぞう」は、都農神社つのじんじゃ御神木ごしんぼくである夫婦楠めおとくすの木のまたから生れ出でた神象しんぞうです。日本書紀にほんしょきによると、大己貴命おおなむちのみことは兄の八十神やそがみ等に攻めやられ、危うく命を落としそうになったとき、母神である櫛名田比売くしなだひめのみこと大己貴命おおなむちのみことの事を案じて「木のまた」から逃がしたと記されています。この事から、この神象しんぞうは「大己貴命おおなむちのみこと化身けしんである」として広く信仰を集めています。不思議な事に神象しんぞうの体にはハートマークが浮出ており、この神象しんぞうでる事で恋愛成就や夫婦円満除災招福じょさいしょうふくの御利益があると言われています。

神門しんもんには「大国だいこく」と「でウサギ」がまつられています。

御祭神ごさいじん大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)は、大袋おおふくろ小槌こづちの「大国だいこくさま」としても知られ、その御姿に誰もが心を和ませます。国土の開拓やあらゆる病気の平癒を行い、また恋多き神様としても有名であることから病気平癒をはじめ、子授けや商売繁盛の御利益があるとされており、「大国だいこく」に願いを込めてでる事で願い事がかなうとされています。

大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)にまつわる話で広く知られるのが「因幡いなば素兎しろうさぎ」です。兄の八十神やそがみ等と共に因幡いなばの国を訪れた大己貴命おおなむちのみこと大国主命おおくにぬしのみこと)は、サメに皮を剥がれて泣き叫ぶウサギが居た。大己貴命おおなむちのみことがそのウサギに「真水を浴びがまの穂の上に寝転ぶと良い」と言われたので、ウサギは教えの通り行うと、みるみる元気になりました。この事からウサギは病気平癒の御利益や、その行いから素直な心を表す象徴とされています。

また、参道さんどう手水舎てみずしゃ近を流れる小川にかかる橋に「あぶら石」が置かれています。古くは都農川つのがわが増水した際、都農川つのがわの対岸に設置してあった「あぶら石」に油を注ぎ火を灯して都農神社つのじんじゃ遥拝所ようはいじょとしていました。現在は、橋が渡された事により「あぶら石」は奉納ほうのうされ、現在に至っています。長年、人々を導き目標とされてきた事により、目標達成や心願成就しんがんじょうじゅ霊石れいせきとして信仰されるようになり、この岩に願いを込めて触れる事で願い事をかなえてくれるとされています。

Photo・写真

鳥居 参道 宮橋から神門 宮橋前の「あぶら石」 手水舎 神門 境内 社殿 社殿 社殿 社殿 拝殿 本殿 本殿 熊野神社 素盞鳴神社 「石持ち神事」の石納所 足摩乳・手摩乳神社 神楽殿・神輿殿 御神象 撫で大国 撫でウサギ 稲荷神社 愛宕神社

 

情報

住所   〒889-1201
宮崎県児湯郡こゆぐん都農町つのちょう川北かわきた13294
創始そうし   神武天皇じんむてんのう御即位ごそくいの6年前(前666)
社格しゃかく   国幣小社こくへいしょうしゃ [旧社格]
例祭   12月5日
神事しんじ   夏祭神幸祭ごしんこうさい(8月1日、2日)
関連   瀧神社 [都農神社・奥宮]
狭野神社(高原町)
皇子原神社(高原町)
皇宮神社(宮崎市)
宮崎神宮(宮崎市)
立磐神社(日向市)
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ

 

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二宮尊徳 「二宮翁夜話」から学ぶ ④ 「小積りて大となればなり」

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みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

「二宮翁夜話」の4回目になります。

 

 

引き続き文語体のややムズカシイ文章になりますが、そのまま書いてみます。

 

 

14

「翁曰、大事をなさんと欲(ほっ)せば、小(ちい)さなる事を、怠らず勤むべし、

小積(つも)りて大となればなり、凡小人の常、大なること欲して、小(ちい)さ

なる事を怠り、出来難き事を憂(うれ)ひて、出来易(やす)き事を勤めず、

夫故(それゆえ)、終(しまい)に、大なる事をなす事あたはず、夫大は小の

積んで大となる事を知らぬ故(ゆえ)なり、

 

譬(たとえ)ば百萬石の米と雖(いえど)も、粒の大なるにあらず、萬町の田を

耕すも、其(その)業(わざ)は一鍬(くわ)づつの功にあり、千里の道も

一歩づつ一歩づつ歩みて至る、山を作るも一つと篑(もっこ)の土よりなる事を

明かに辯へて、励精(れいせい)小さなる事を勤めば、大なる事必(かならず)

なるべし、小さなる事を忽(ゆるがせ)にする者、大なる事は必出来ぬものなり」

 

 

〇ノ丞解説:要は横山きよし師匠の「小さなことからコツコツと」ということ

でしょうか・・・。

自分の欲しい物が例えば何百万円もするものだとして、自分の手元の貯金は

数十万円しかないとすれば、働いて時間をかけて貯金するか、もしくは他の

安いものに変えるしか手はありません。

 

その道理がわからない人は、自分の置かれた今の状況を考えずに感情が突っ走って

しまい、結果いつも「お金がない」とか「失敗した」という結果になります。

 

このあたりも「分度」ということが関わっていますが、例えばローンについても

同じ事が言えるのではないでしょうか。

 

現在の新型コロナウィルスの影響でローンの支払いに難をきたしている方が増えて

いるかと思われますが、やはり世の中は景気が良い時と悪い時が必ずやってくること

を予測して、ローンの返済計画を立てないと、単純な割り算では後々後悔することも

出てきます。

 

まあ、公務員などは景気に関係ないのですが・・・

 

一般の民間企業に勤めておられる方は、順調のように見えても一歩世の中の流れに

外れてしまうと「倒産・廃業」という危機が背中合わせである、そして明日の

利益が必ず保証される、というものの考え方は通用しなくなっている時代に

きているのでは、とも思います。

 

 

 

 

 

 

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尾張式内社を訪ねて 68 浅井神社 (一宮)

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みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

今回ご紹介する神社は「浅井神社」です。

 

愛知県一宮市浅井町東浅井北屋敷浦312番地

 

御祭神

水波売神(みづはのめのかみ)

塩土翁(しおつちのおきな)

天照御大神

 

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この「こんもり」した感じ、どうでしょうか? 髪をセットしたみたいな・・・

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キレイな緑色です

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こちらは注連縄が巻いてありますのでご神木です

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右に見えます井戸らしきものは、温故井とかつて言われていたものと思われます

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 手水舎

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木漏れ日が良い演出をしていますね

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浅井神社は欽明天皇24年(西暦563年)創建。こちらの浅井町が浅井古墳群と

よばれる古墳時代後期の古墳の密集地にあり、またこの浅井神社の社殿は

古墳上に建てられています。

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江戸時代には「八龍神社」とも呼ばれていました。大正7年には東浅井地内にあった

太神社(おおじんじゃ)、神明社、塩釜社の三柱を合祀したそうです。

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右側に磐座が見えます

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こちらはお社の右側にあります、浅井神社古墳の石碑

 

それでは、ここからお社をぐるりと一周してみます
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こちらの木も立派でした

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こちらのお社も、古墳の跡に建てられております。

「浅井」の「井」は水のことなので、名前が示す通り水に縁が深い神社

ですね。

 

 

当社は一宮市の浅井山公園の真ん前にあります。

車はその浅井山公園に停めての参拝になりました。

 

 

 

めぐみさんの弟 中学生らに拉致の詳細語る (日テレNEWS24より)

 

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みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

拉致被害者横田めぐみさんの弟であられる拓也さんの記事です。

よろしければご覧下さい。

 

 

北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんの弟・横田拓也さん(52)が27日、神奈川県川崎市の中学校を訪れ、中学生らにめぐみさんが拉致された時の状況を詳しく語りました。

拓也さん「(めぐみさんは)日本海から出る船の中、船の底にですね、閉じ込められて、必死で中側から鍵のかかった部屋からですね、ドンドンたたいて『お母さん助けて』『出してくれ』ということを泣き叫んでいたというふうにいいます」

川崎市の中学校で道徳の授業の一環として行われた講演会で、横田拓也さんは、姉のめぐみさんが拉致された時の状況や、43年にわたる家族の戦いについて語りました。

拓也さん「(講演会は)若い世代のかたに向けて、この問題が今も解決してない問題だよということを伝えるために意味があったと思う」

講演後、拓也さんは、拉致問題が長年、進展がないことに触れ、風化させないために、若い世代に伝えることの重要性を改めて感じたと述べました。 (出典:日テレNEWS24)

 

 

〇ノ丞:日本は憲法9条のお陰で平和なのだ、という意見がありますが、日本国民

が外国に拉致されても、憲法9条の制約により自衛隊は救出活動することができま

せん。

横田めぐみさんが拉致されたその時も、日本海には海上自衛隊がいたにも関わらず、

手を出すことができなかったのです。

そして、その陰で拉致被害者の家族は日々苦しみ続けているのです。

 

日本国民が拉致されている、その認定されている数自体も正確なものではない

というのが実情です。

拉致問題は解決していません。

 

 

 

 

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自民会合、政府の対応「弱腰だ」 中国外相の尖閣発言(朝日新聞デジタルより)

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

先日の日中外相会談についての記事です。

 

 

共同記者発表に臨む茂木敏充外相(右)と中国の王毅国務委員兼外相=2020年11月24日午後、東京都港区の飯倉公館、代表撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

© 朝日新聞社 共同記者発表に臨む茂木敏充外相(右)と中国の王毅国務委員

兼外相=2020年11月24日午後、東京都港区の飯倉公館、代表撮影

 

 

中国の王毅(ワンイー)国務委員兼外相が尖閣諸島について一方的に領有権を主張したことをめぐり、26日の自民党の会合で日本政府の対応への「不満」が噴出した。近く、党外交部会などが決議文をまとめ、茂木敏充外相に申し入れを行うことが決まった。

 

 24日にあった日中外相会談後の共同記者発表で、茂木氏の発言後、王氏が外相会談の成果について説明。「ここでひとつの事実を紹介したい」と切り出し、「一部の真相が分からない日本漁船が釣魚島(尖閣諸島の中国名)周辺に入っている。中国側としてはやむを得ず、必要な反応をしなければならない」などと主張した。

 これについて26日の自民党外交部会と外交調査会の合同会議では、出席者から「王氏が発言したその場で反論すべきだったのではないか」との声や「中国の主張を黙認していることになる。弱腰だ」などの批判が相次いだ。(出典:朝日新聞デジタルより)

 

 

〇ノ丞解説:この件について、自民党の外交部会・外交調査会合同会議にて早速

参議院議員青山繁晴議員が「中国に激しく抗議し、政府の責任と対応を徹底的に問い、その上で政府ができないなら党がやるべきだと行動を求めました」旨の発言をされました。

 

 

続けて、青山繁晴参議院議員のブログよりこの時の模様を転載いたします。

              ☟



 開会までに、外交部会の佐藤正久部会長と、副部会長も来られました。
 部会長も副部会長も、ふだんから早く来られます。




 この2枚の写真から、開会後です。
 雛壇(ひなだん/首脳陣席のこと)には、原田義昭・前環境大臣もおみえになっています。
 外交・安全保障にふだんから関心のある議員が集まっています。
 ひとつ前のエントリーで記したように、ぼくが最初に発言しました。議員席から、賛同の大きな拍手も起きました。その後も、写真の柴山前文科大臣も含め、その前に座っておられる山田宏・護る会(日本の尊厳と国益を護る会)幹事長も含め、どしどし発言されています。
 こういう場には、親中派の発言はいつも、ありません。
 そこがまた、大問題です。ふだん隠れています。上から指示が降りると、突如、大挙しておみえになります。習近平国家主席国賓来日について、「中止を要請」という趣旨を外交部会が決議したときがそうでした。
 いつもは親中派の議員たちはいらっしゃらないか、発言されないので、そのかたがたと議論ができません。
 だからこそ、内部深くから変えていくほかないのです。見える場だけで勇ましくやっていても、ほんとうに変わるべきは変わりません。

 こうした部会は、公開と非公開の中間です。いつも申しているとおりです。
 だから他の議員の発言の紹介は、あくまで慎重に扱います。
 しかしぼく自身の発言は、すべて、一切、あとで主権者に一言一句、お伝えします。

(出典:青山繁晴ブログより」

 

 

〇ノ丞:皆さんご存知の通り、自民党内においてもいわゆる「親中派」の議員も

おられます。

例えば今年8月に自民党の秋元司議員がカジノ(IR)事業をめぐる汚職に絡む

贈賄側への証人買収事件にもありましたように、間接的に「チァイナマネー」を

受け取っている議員も少なからずおられると考えられます。

他にも献金という形をとってはいても、そこを辿っていくと「チャイナマネー」が

ちらついていたり・・・

秋元議員のように、その見返りに便宜を図ったり、というケースも少なくはないで

しょう。

 

国民の見えないところで、こういった工作活動は日夜続けられているのです。

 

日本にはスパイ防止法がありませんから、外国のスパイ・諜報員は楽々活動が

できてしまします。

 

国民の知らないところで・・・

 

 

 

 

一番最初の天皇 神武天皇 ①

 

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 (出典:国史絵画)

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

現在で126代続く天皇制の、一番初めの天皇神武天皇です。

 

今回からその神武天皇が故郷の日向を出発して、近畿地方の大和にて最初の天皇

として即位するまでの物語を書いていきます。

 

参考にする書籍は「出雲井昌」さんの

『教科書が教えない神武天皇

を中心として、難しい漢字や呼び方などは割愛して、また解説なども加えて

できるだけわかりやすいように書いていきたいと思います。

 

 

 

<序>

今から約2千6百年前、神倭伊波礼比古命(かむやまといわれびこのみこと・

神武天皇の名前)が、日向(ひゅうが・宮崎県あたり)から大和(近畿地方)へ、

道なき道をふみわけて、善良な人々を苦しめている土豪たちをたいらげ、すべて

の民が幸せで豊かに暮らせるように、日本の国を建国して、第一代の天皇

み位におつきになられました。

そのお方を「神武天皇」といいます。

そのご苦労のさまをしるします。

 

 

〔はじまり〕

今から約2千6百年前、神武天皇天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命

玉依姫の第四皇子としてお生まれになりました。

ご幼名は狭野命とも言われておりましたが、その後には神倭伊波礼比古命と

なりました。

生まれは日向国 西諸縣群 高原郷 蒲牟田村狭野です。 

 

ある時、小高い丘の上にある神武天皇の御殿からあたりを眺めておられた

神倭伊波礼比古命は、兄の五瀬命(いつせのみこと)に言いました。

 

邇邇芸命(ににぎのみこと・神武天皇の曾御爺さんにあたる)が日向に降られ

ての長い年月の間に、ようやく筑紫のあたりはうるおいました。

しかし東方はまだ国神(くにつかみ)と称する酋長(しゅうちょう)が勢力を

争ってさわがしいと聞きます。

四方を青い山にかこまれた大和(近畿)が大八島(=日本)の中心です。

天照大神の思し召し(おぼしめし)である、この国のすべての人々が安らいで

、豊かに暮らせるようにするには、都を大和に置くのがよいと思います。

天神(あまつかみ)のみ子邇邇芸命もすでにその地についたとも聞き

およびましたから」

 

 五瀬命もうなずかれました。

 

「瀬戸の内海は船の便も多いので、東方の様子は日向の私達にもよくわかる。

しかし高千穂は大八島の西の端の方にあるために、すべての民を統(る)べる

のがむずかしい。いつまでもこの地にとどまっているべきではない。速やかに

都を東方に移して天照大神の御心にそわねば」

 

天孫邇邇芸命が降られて以来、高千穂の辺りでは御殿は何度も替えられました。

しかしそれは筑紫島(九州)の中でだけのことでした。

 

こうして、お仕えする者達をひきつれてみやこ遷(うつ)しが始まりました。

 

目指す所は大和と決まりましたが、そこに行き着くまでは気も遠くなるほどの

難事業でありました。

神武天皇、時に45歳の頃の話し)

 

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(出典:「歴史人」より」

 

 

②につづく~

 

 

●少々長くなりますが、神武天皇の生誕地と言われている所にある神社も

ご紹介しておきます。(出典:「九州の神社」より」)

 

 

宮崎県・狭野神社(高原町)

御祭神

主祭神しゅさいじん   神武天皇じんむてんのう幼名ようめい狭野尊さののみこと
相殿神あいどのがみ   吾平津姫あひらつひめのみこと天津あまつ彦火ひこほの瓊瓊杵尊ににぎのみこと木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみこと豊玉姫命とよたまひめのみこと鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみこと玉依姫命たまよりひめのみこと

由緒

社伝しゃでんによれば、第5代孝昭天皇こうしょうてんのう(前475-前393)の御代みよ神武天皇じんむてんのう御生誕ごせいたん霊跡れいせき創建そうけんされたのが創祀そうしです。神武天皇じんむてんのう幼名ようめい狭野尊さののみこと奉称ほうしょうするのは、狭野さのの地名によるものとされています。当社より西方1200mに末社まっしゃ皇子原神社おうじばるじんじゃ鎮座ちんざし、産婆石うべいししょうされる神石かみいし奉齋ほうさいされています。神武天皇じんむてんのう御生誕ごせいたんの際に産湯うぶゆ御取おとりになられたと伝承でんしょうされ、安産あんざんをもたらすと信仰しんこうされています。それ以外にも狭野神社さのじんじゃから皇子原神社おうじばるじんじゃにかけての一帯には神武天皇じんむてんのう御生誕ごせいたん霊跡れいせきとされる地が多く、皇子滝おうじたき皇子川原おうじかわら御池おいけ皇子港おうじこうなどの地名が残っています。神武天皇じんむてんのう御齢おんとし15才を迎える迄、当地で天下広く統治すべく天壌無窮てんじょうむきゅう御心みこころつちかわれ、御東征ごとうせい後、橿原かしはら宮居みやいにて初代の天皇としてご即位そくいなされました。

敏達天皇びだつてんのう(572-585)の御代みよより別当べっとうじ創立そうりつし、金剛こんごう仏作寺ぶっさじ神生院しんしょういん勅号ちょくごうたまわります。天暦年間てんりゃくねんかん(947-957)には、天台宗てんだいしゅうの僧の性空上人しょうくうしょうにんが4年間霧島山きりしまやま入峰修行にゅうほうしゅぎょうし、高千穂峰たかちほのみねの周囲6ヶ所に鎮座ちんざする其々それぞれの神社のかたわらに寺院じいん別当べっとうじ)を建立こんりゅう霧島山きりしまやまを中心とした霧島六社権現きりしまろくしゃごんげん狭野神社さのじんじゃ霧島東神社きりしまひがしじんじゃ霧島神宮きりしまじんぐう霧島神社つまきりしまじんじゃ霧島岑神社きりしまみねじんじゃ夷守神社ひなもりじんじゃ)の一社いっしゃとして神仏習合しんぶつしゅうごう霧島修験きりしましゅげん霊場れいじょうとして開山かいざんされ、霧島修験道きりしましゅげんどう大寺だいじとして信仰しんこうされました。

狭野神社さのじんじゃ狭野権現社さのごんげんしゃ神徳院しんとくいん
霧島岑神社きりしまみねじんじゃ中央権現社ちゅうおうごんげんしゃ瀬多尾寺せたおじ
霧島東神社きりしまひがしじんじゃ東御在所之宮ひがしございしょのみや錫杖院しゃくじょういん
霧島神宮きりしまじんぐう西御在所之宮にしございしょのみや華林院かりんいん
霧島神社つまきりしまじんじゃ東霧島権現社つまきりしまごんげんしゃ勅詔院ちょくしょういん
夷守神社ひなもりじんじゃ夷守権現社ひなもりごんげんしゃ宝光院ほうこういん) ※現在は雛森神社ひなもりじんじゃとして霧島岑神社きりしまみねじんじゃ合祀ごうし

慶応けいおう2年(1866)の廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより神徳院しんとくいん廃寺はいじとなりますが、歴代れきだい住職じゅうしょく中興ちゅうこうと仰ぎ、神徳院しんとくいん墓地をの創設そうせつまつっています。

明治6年(1873)には県社けんしゃ列格れっかく明治32年(1899)には宮崎宮みやざきぐう(現在の宮崎神宮みやざきじんぐう)で斎行さいこうされた神武天皇じんむてんのう御降誕ごこうたん大祭会たいさいかいにて、宮崎宮みやざきぐうの改築が狭野杉さのすぎをもってなされることとなり、旧社殿きゅうしゃでん狭野神社さのじんじゃ寄進きしんされることとなります。、明治40年(1907)5月31日に本宮ほんぐう遷座せんざ祭りが斎行さいこうされました。その本殿ほんでん流造ながれづくり拝殿はいでん入母屋造いりもやづくりで外拝殿はいでん流造ながれづくりです。大正4年(1915)6月1日に官幣大社かんぺいたいしゃ宮崎神宮みやざきじんぐう別宮べつぐうに指定。昭和27年(1952)7月31日に宮崎神宮みやざきじんぐうより分立し、単独の狭野神社さのじんじゃとして発足しましたが、宮崎神宮みやざきじんぐう別宮べつぐうの名称はそのまま残されています。

社領きゅうしゃりょうちは東西2000間・南北1000間に迄及ぶとされ、歴代れきだい薩摩藩さつまはんしゅ島津当家しまづとうけより尊崇そんすうあつ社殿しゃでん寄進きしん等も度々たびたび行われてきました。豊臣秀吉とよとみひでよし朝鮮ちょうせんえきでは、薩摩藩さつまはんしゅ島津義弘しまづよしひろ出陣に際し、戦勝せんしょう祈願きがんがなされます。凱旋がいせんの後の慶長けいちょう5年(1600)には、戦勝せんしょう祈願きがん報賽ほうさいとして重臣じゅうしん新納武蔵守忠元にいろむさしもりただもとを遣わし、境内けいだい全般に300本の杉が植栽しょくさいされました。一ノ鳥居いちのとりいから続く狭野神社さのじんじゃ参道さんどうは国道より1300mに及び、直線ちょくせん参道さんどうでは日本で一番長い参道さんどうです。その参道さんどうおお社叢しゃそうがその時に植栽しょくさいされた杉で、大正13年(1924)、「狭野さの杉並木すぎなみき」として国の天然記念物てんねんきねんぶつに指定されました。

霧島連峰きりしまれんぽうふもと鎮座ちんざすることから、幾多いくたの火山噴火の災禍せいかに見舞われており、遷座せんざを繰り返しています。桓武天皇かんむてんのう延暦えんりゃく7年(788)3月の霧島山きりしまやま噴火により社殿しゃでん焼亡しょうぼう文暦ぶんりゃく元年(1234)12月28日の霧島山きりしまやまの噴火では、社殿しゃでん等をことごと焼亡しょうぼうしたため御神体ごしんたい都城市みやこのじょうし高崎町たかざきちょう霧島神社つまきりしまじんじゃ仮殿かりでんを設け奉遷ほうかんしました。300年ほどその地に鎮座ちんざし、天文てんぶん12年(1543)に第15代薩摩藩さつまはんしゅ島津貴久しまづたかひさにより西諸県郡にしもろかたぐん高原町たかはるちょう西麓せいろく鎮守神ちんじゅじんじゃ仮宮かりのみやいとな遷座せんざ。後、慶長けいちょう15年(1610)に現在の狭野さの旧蹟きゅうせきに戻られることとなりました。享保きょうほう元年(1716)9月26日の霧島山きりしまやまの大爆発で、社殿しゃでんは無事でしたが別当べっとうじ焼亡しょうぼう享保きょうほう3年(1718)1月3日の大噴火で地域一帯の部落ぶらく焼失しょうしつしたため、夷守神社ひなもりじんじゃ別当べっとうじである宝光院ほうこういん御神輿おみこし守護しゅごってしたたまわって遷座せんざ享保きょうほう5年(1720)、狭野さのの地に仮殿かりでん仮寺かりじ造営ぞうえいして、翌享保きょうほう6年(1721)2月5日に還御かんぎょたまわりました。記憶に新しい処では、平成23年1月26日以降の新燃岳しんもえだけの大噴火を受けて小林市こばやしし霧島岑神社きりしまみねじんじゃしば遷御せんぎょしますが、同年の10月19日に正遷座せんざされました。

社殿しゃでん前の両脇りょうわき鎮座ちんざする東門守社ひがしかどもりしゃ武甕槌神たけみかづちのかみ西門守社にしかどもりしゃ経津主神ふつぬしのかみ御祭神ごさいじんです。社殿しゃでん向かって左手の水神社すいじんしゃは、罔象女神みつはのめのかみ大山祇神おおやまつみのかみ大山昨神おおやまくいのかみ白山媛神しらやまひめのかみまつっています。

例大祭れいたいさいは、10月23日。特殊神事とくしゅしんじとしては、2月18日の苗代田祭なわしろたまつり、5月16日御田植祭おたうえまつり、そして12月第1土曜日には国指定重要文化財狭野神楽さのかぐらがあり、いずれも古い伝統を有し古風こふう豊かなものです。

県重要けんじゅうよう無形文化財むけいぶんかざいに指定されている苗代田祭なわしろたまつりは、春祭はるまつり祈年祭きねんさい)の後に行われる行事で、別名「ベブがハホ」とも呼ばれています。農業にちなんだ予祝よしゅく祈願きがん田遊たあそくびとして発達したもので、「ベブ」は牛、「ハホ」は主婦(妊婦)を指します。社頭しゃとうを田んぼに見立てて、木彫りの牛を使って苗代なわしろの整える様子から種蒔たねまき等の田作たづくりをユーモラスに演じる神事しんじです。神牛かみうしは、文政ぶんせい7年(1824)7月、社掌しゃしょう古川平右エ門ふるかわひらうえもん増田庄兵衛ますだしょうべえの二人が伝来でんらいの木彫りの牛の原形を失わないように彫刻したと伝えられる由緒ゆいしょ深いものです。現在は、その初代の神牛かみうしをもとに昭和15年(1940)に作られた二代目が伝えられています。

5月16日の御田植祭おたうえまつりも農業に基づく神事しんじで、御田植踊おたうえおどり(棒踊り)は五穀豊穣ごこくほうじょうを願って行われる踊りです。覆面をした30名程の青年が六尺棒と鎌を持って、歌に合わせて勇壮な踊りを奉納ほうのうします。

平成22年3月11日に「高原の神舞たかはるのかんめ」として国重要くにじゅうよう無形文化財むけいぶんかざいに指定された狭野神楽さのかぐらは、毎年、12月第1土曜日の19時頃から狭野神社さのじんじゃ第二鳥居だいにとりい近くの広場を舞庭まいにわとして、真剣しんけん、を使用した勇壮な舞や面を着用したユーモラスな舞などが翌朝7時頃まで33番が夜をてっしておさめられています。400年ほど前にはすでに行われていたと考えられており、延宝えんぽう2年(1674)の古文書こもんじょの中に「神楽かぐら三十二番さんじゅうにばん」「社家しゃけ」などの記述が見られる事から、江戸時代初頭には、すでに神楽かぐらを実施できるだけの社家しゃけ組織が成立していたと考えられています。また、文政ぶんせい6年(1823)作成の番付表ばんづけひょうを見ると、39番という大がかりな神楽かぐらであった事がわかります。

Photo・写真

日本で一番長い直線参道 日本で一番長い直線参道 参道から手水舎と神門 境内 境内 外拝殿 拝殿 拝殿 拝殿 本殿 東門守社 西門守社 水神社 狛犬 狛犬 狛犬

 

情報

住所   〒88-4414
宮崎県西諸県郡にしもろかたぐん高原町たかはるちょう蒲牟田かまむた117
創始そうし   孝昭天皇こうしょうてんのう御代みよ(前475-前393)
社格しゃかく   県社けんしゃ [旧社格]
宮崎神宮みやざきじんぐう官幣大社かんぺいたいしゃ)・別宮べつぐう
例祭   10月23日
神事しんじ   苗代田祭なわしろたまつり(2月18日)
御田植祭おたうえまつり(5月16日)
狭野神楽さのかぐら(12月第1土曜日)
関連   皇子原神社(高原町)
皇宮神社(宮崎市)
宮崎神宮(宮崎市)
都農神社(都農町)
立磐神社(日向市)

地図・マップ

 

 

 

 

 

 

 

 

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空を見上げて  龍神雲?ほか

 

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 (先日に出た虹)

 

みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。

 

今回は日頃撮りためたオモシロ写真のご紹介です。

良かったらご覧下さい(^-^)

 

 

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(かすかに見えます・・・うねっていませんか?)

 

  

龍神雲) 

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(角っぽいものが見えるかと思いますが・・・)

 

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(拡大して撮ってみたら・・・)

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(こちらを見つめられている感じが・・・)

 

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(こちらは同じ日の夕暮れ時 かなりハッキリ見つめられております・・・)

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(悪いことできませんネ・・・)

 

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(右上辺りは、天空の城ラピュタの最初の一コマ、女性らしき女神がふぅ~と雲を吹くイメージかな・・・)

 

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(夕日に照らされて漂っていた雲 キレイだったので載せました。右が子象かな?)

 

また面白い雲や空の写真が沢山たまりましたら、改めてアップいたします(^^)/