(出典:国史絵画)
みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
神武天皇が故郷の日向を出発して、近畿地方の大和にて最初の天皇
として即位するまでの物語の11回目です。
<前回の続きから>
《 日本書紀》
「三月の丁卯(ていばう)の朔(ついたち)にして丙子(へいし)に、
遡流而上(かはよりさかのぼ)り、径(ただ)に河内国の草香邑(くさ
かのむら)の青雲の白肩津に至ります」
難波(なには)の岬で祭祀を行ったカミヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)
は、現在の東大阪市のお日下あたりに到着しました。
目の前に迫る生駒山を越えれば、日向でシオツチヒコに
「東に美地(うましつち)有り。青山四周(あおやまよもにめぐ)れり」
よ教えられた大和の地であります。
しかし・・・
《古事記》
此の時に、登美能那賀須泥比古(とみのながすねびこ)、軍を興し、
待ち向かへ戦う」
徒歩で生駒越えを試みる一行を先住民のナガスネビコが待ち構え、戦を
仕掛けてきた、と古事記では記してあります。
先住民のナガスネビコが軍を興した理由を、日本書紀は次のように
記してあります。
《 日本書紀》
「夫(そ)れ天神(あまつかみ)の子等(みこたち)の来ます所以
(ゆえ)は、必ず我が国を奪はむとならむ」
で、海を渡ってきたカムヤマトイワレビコノミコトの一行が国を
奪いに来ると考え、生駒山の山上から迎え撃とうとしたのでした。
《奈良寺社ガイドより》
生駒市白庭台の住宅地に神武天皇と戦った長髄彦(ながすねひこ)の本拠地があった場所とされる碑が建っています。
長髄彦とは『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)、登美毘古(トミビコ)とも表記されます。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている豪族です。この地は特に神武天皇と戦ったとされる場所で、富雄川付近には関連する場所が多数あります。
(出典:「歴史人」より」