みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
今回も元チェンソーアート世界チャンピオンの城所ケイジさんのブログ
からの転載です。
みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
拉致被害者の横田めぐみさんのお父さん、横田滋さんが亡くなられて
6月5日で一年が経ちました。
そのことについての記事をご紹介いたします。
(TBSニュースより)
なぜ拉致問題は解決できないでしょうか?
それは日本国憲法9条に
「国の交戦権はこれを認めない」
とあるからです。
横田めぐみさんが拉致され、日本海上を船で連れていかれるとき、
なぜなら
「相手が国であれば、国民が拉致されても戦っては
いけない」
からです。
この9条の制約のために、たくさんの日本国民が犠牲となり、拉致されて
しまいました。
それを周辺国もわかっています。
日本国民よりも。
「日本は拉致された国民を取り返しに来ない」
と。
なので日本国民の拉致被害者を取り返そうともせず、拉致被害者がいるのに
もかかわらず、それを無視して憲法9条のおかげで日本は平和なのだという、
一部のテレビの評論家や学者が言うことが、今だにまかり通っています。
拉致被害者がいても、忘れさられる。
尖閣諸島に機関砲を積んだ中国の公船がやってくるのも、国の船ならば日本は
攻撃してこないとわかっているからです。
一部の人間が不幸な目にあっても、それを見て見ぬふりをして、平和だと
思い込んでしまっているのが、日本のいまの現状ではないでしょうか。
日本の与野党の国会議員の多くも、この問題を国会で全く取り上げず、くだらない
人の揚げ足取りばかりに、貴重な時間と国民の多額の税金を使っています。
国会議員が日頃国のため、国民のために本当に働いているのか?
一部の特定の支援団体のために働いているのか?
国民はそれをきちんと見定めて、投票しなければいけないと思います。
自分は素晴らしい存在
そこに気づいたとき
厳しく 真っ暗な人生に光りを見出す
そして 人生に希望をもつことが できるだろう
その素晴らしさとは
周りと比較して 優れている 劣っている
といった感覚とは違う
自分がたとえ気づかなくとも
その光は
消えることはない
なくなることはない
(土用殿。明治前まで草薙剣が奉安されていたお社で、現在は新しくなっています)
みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
今回は熱田神宮の記事ですが、あまり知られていないであろう旧参道を
歩きながら、ご紹介してみたいと思います。
なにせ熱田神宮の記事自体は巷に溢れていますので、今回はちょっと趣向を
変えて、普段とは少し違う角度からの熱田神宮とその歴史をば読者の皆様は見て、
感じていただければと思います。
それではいってみましょー('◇')ゞ
まずこちらは熱田神宮の「南門」。
熱田神宮の鳥居は南、西、東とあり三か所から入れます。
地下鉄の出口によってどこが近いかが決まります。
地下鉄の駅は伝馬町が便利で、そこから南門、東門に徒歩で行けれます。
こちらは南門の反対側にあります、鰻のひつまぶしで有名な「蓬莱軒」。
いつも行列ができるお店で、テレビの熱田神宮の特集では、必ずここがセットで
出てきます。
旧参道は、この南門の鳥居をくぐらず、右側に進んでいきますと
さて、これが旧参道です
では入ります
入ってすぐ右側にございますのは
日割御子神社
こちらは名神大社であり、格式高いお社なんですよ。
さらに進みますと、右手に
孫若御子神社
こちらも名神大社です。
どちらも尾張に縁の深い御祭神で、さすがに旧参道なので、このように格式高いお社
が並んでいるわけなんです。
さらにグイッと進みますよ
右手に見えてきました南新宮社で、御祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)
さらにグイグイ北へ進みますと、左手に見えてきましたのは
さらにグイグイグイ(⇐もうええやろ)と進みますと(ちなみに少し離れた左側
には、本宮につながって並走している参道がちゃんとあります)
見えてきましたのは熱田神宮文化殿なのですが・・・、ここで行き止まりかと思った
その先には
見えづらいですが、ちゃんと奥に旧参道が続いています
さらにグイグイグイグッ・・(👋ええ加減にしなさいっ!)
写真の左右にある塀は、信長塀と云いまして
織田信長が桶狭間の戦いの前、熱田神宮にて必勝祈願し、無事勝利を収めた
そのお礼に奉納されたもの。
今回、旧参道を紹介しようと思い立ったのも、この信長塀が旧参道側にあった
からでした。
信長の時代は、この旧参道が本来の参道だったので、こちらに信長塀が作られて
いるわけです。
熱田神宮創建1900年の歴史を、こういったもので感じていただけます
でしょうか?
さらに進みますと、手前には神楽殿が。こちらでは祈祷や神楽をするところ
です。
その神楽殿の右端に道が続いていて
二手に分かれた道の左側を進みます。左は神楽殿の建物。
見えてきましたのは
明治以前まで、熱田神宮の草薙剣が奉安されていました「土用殿」
位置としては、神楽殿のちょうど後ろにありますので、明治以前までは現在の
神楽殿の場所あたりに、拝殿・本殿があったと思われます。
このように皆様も一度現在の本宮に続く参道とは別に、旧参道を歩いてみて、
古(いにしえ)の古人たちのその時代・その時代の人達の残っている「氣」を
感じながら、参拝してみるのもまた、楽しいのではないでしょうか?
以上、今回は熱田神宮の知られざる過去(大袈裟か👋)について書いてみました。
※草薙剣については、こちらをご参照ください。
☟
(出典:国史絵画)
みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
神武天皇が故郷の日向を出発して、近畿地方の大和にて最初の天皇
として即位するまでの物語の13回目です。
<前回の続きから>
敵の放った矢がイハレビコの兄のイツセのひじに当たり、天皇軍は
進撃不能となりました。
《古事記》
「<賤(いや)しき奴が手を負ひてや、死なむ>とのりたまひ、男建(おたけび)
して崩(かむあが)りましぬ。其の水門(みなと)を号(なづ)けて男水門
(をのみなと)と謂(い)う」
ナガスネビコとの闘いで矢傷を負った五瀬命(いつせのみこと)の最後を
古事記はこう記している。
その五瀬命の終焉の地とされる場所に建つのが男神社(おのじんじゃ)
☟
泉南市観光ガイド「恋するせんなん」より写真と文をお借りしました。
神武東遷神話ゆかりの古社
スポット名 | 男神社(おのじんじゃ) |
---|---|
住所 | 〒590-0526 泉南市男里3-16-1 |
電話番号 | 072-483-2266 |
時間 | 9:00~17:00 |
駐車場 | 有り(20台) |
URL | https://www.instagram.com/onojinjya/?hl=ja |
アクセス | 南海本線「樽井駅」下車 徒歩約20分、もしくはコミュニティバス南方面回り「男里中」下車 |
イワレビコの長兄である五瀬命が無念の雄たけびを上げた男水門(をのみなと)
は、男神社のほかにもう一つ候補地がりまして、
☟
(「じゃらん」より写真と文をお借りしました)
「ゑびすさん」と呼ばれて親しまれている。大国福徳2神を祀る。水門神社は御子蛭児神(恵美須さん)、吹上神社は大己貴神(大国さん)が御祭神である。紀州の十日戎祭発祥の社として知られ、毎年正月9日、10日、11日の十日戎には、福を授かるべく老若男女が数多く参詣する。
又、現在では、よく知られている「のし飴」も当社が発祥の物であり、これは紀州独特の物で、他では見られない。
また、牛の舌餅という畳1枚程ある「のし餅」は、毎年11月23日の新嘗祭に、神饌として、御供し、祭典終了後、参詣者に、他の奉納された餅とともに、投げ配られている。
※掲載されている情報や写真については最新の情報とは限りません。必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。
所在地 | 〒640-8224 和歌山県和歌山市小野町2-1 MAP 073-422-7007 |
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交通アクセス | (1)南海和歌山市駅から徒歩で10分 |
(出典:「歴史人」より」
みなさんこんにちは、中今〇ノ丞です。
今回は「後奈良天皇」についての記事を書きます。
(一年前の記事をリライトしました)
(註:この絵画の後奈良天皇はマスクのようなものをしていますね。般若心経を
清書されているので、このようにされていると思われます。神職さんでも、
神様の御本殿前にてお供えものをする時などに、神聖な神様に息がかからない
よう、このようにマスクのような紙のものをして行事作法をされます)
後奈良天皇とは
[生]明応5(1496).12.23. 京都
[没]弘治3(1557).9.5. 京都
第 105代の天皇 (在位 1526~57) 。名は知仁。後柏原天皇の第2皇子。母は豊楽門院藤原藤子 (勧修寺教秀の娘) 。皇室の最も式微した時期で,室町幕府の献金で践祚し,それから 10年後の天文5 (36) 年,北条,今川,朝倉,大内氏らの献金によって即位式が行えたほどであった。全国的な争乱に加えて,同9年の飢饉と疫病に苦しむ庶民を見て,宸筆の『般若心経』を諸国一宮に奉納し災厄を祈禳したことは有名である。学を好み,三条西実隆らに和漢の書の講義を聞き,古典の書写,保存に努めた。『天聴集』が現存している。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
令和になって、現在の天皇が即位式と大嘗祭を行われたことは記憶に
新しいですよね。
現在、武漢発「新型コロナウィルス」により、国も国民も色々な困難に直面
させられています。
歴代の天皇陛下は、疫病や飢饉などの国難が起こると、賢所(かしこどころ:
天照大御神が祀られている場所)で祈願をされたりしますが、後奈良天皇は
在位期間にも、上記の疫病が大流行しました。
この国難のときに後奈良天皇は「般若心経」を金文字で書かれて、全国の
一宮の神社に奉納し、この疫病をなくすように神に祈願されました。
それも、誰に知られることもなく、密かに勅使を全国に派遣されたとか。
当時は室町幕府の力も衰え、国内の経済も苦しく、当然皇室の経済状態も
乏しいのにも関わらず、です。
何故か?それは「天災や飢饉、疫病が起こるのは、自分にその徳が足りない
からだ」とご自身を咎められるからです。
決して人のせいにはしません。
その時の般若心経が、愛知県の三河、西尾氏亀沢町に現存しております。
(文化財愛知ナビより抜粋)
↓↓↓
天文8年(1539)、気候不順で8月に洪水、さらに蝗害も加わり諸国は凶作となり、
翌9年の春には諸国飢饉の上、悪疫も流行し天下惨状を極めた。天皇は痛嘆し
嵯峨天皇以来の慣例に従い般若心経を書写し、山城国醍醐寺三宝院の義尭僧正を
禁中に召して、5日問にわたり不動法を行って供養させた。さらに天皇は宸翰の
心経を諸国一宮に奉納した。現存しているのは、この1本をはじめ、肥後・
周防・甲斐・伊豆等、数本にすぎない。
(全国の一宮に奉納されていたという事も、発見されたから分かった)